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「熊被害のニュース」から考える、社会の変化や気候変動との繋がりについて
- 最終更新日:2025-11-27
熊の人の生活圏への出没が増え、全国でクマ類による被害が相次いでいます。被害に遭われた方々のことを考えると、とても心が痛みます。
熊被害の急増は、もはや山奥に限った出来事ではなく、私たち一人ひとりの生活圏に迫る非常に現実的な問題となりました(毎日のように報道されるニュースの通りです)。しかし、この問題の背景を知ると、単に「熊が増えた」という話ではなく社会の変化や気候変動が私たちの暮らしにどのように影響を与え始めたかという、本質的な部分が見えてきます。
そこで本稿では、私たちが日常で目にしていた「熊のニュース」が、地方の抱える問題や地球温暖化とどのように繋がっているのか、人間の生活圏がどう変わりつつあるのかを紐解いていきます。
なぜ、熊が人里に下りてくるようになったのか?
環境省による報告では「熊の大量出没」の要因として、以下の可能性を挙げています[1]。
- 個体数の増加と分布域の拡大
- 人の生活環境での定着個体の増加と人慣れ個体の増加
- ブナ科堅果類(ドングリ)などの採食植物の同時凶作
私は野生生物や獣害については門外漢ですが、ここに書かれている要因を見て、日本における人間の生息域と農業や生活で利用する資源エネルギーの変化について考えていきたいと思います。
人口増加と農業生産のための「草山」の利用
日本の総人口は現在減少期にありますが、長期的には増加し続けてきました。
江戸初期に約1,200万人と推定された人口は、江戸中期には3,000万人ほどになり、明治維新時には3,300万人に達しました。この人口増加は江戸幕府成立(17世紀)以降の新田開発によって支えられたものです。

図. 日本の総人口の長期的推移
江戸期における新しい水田の開発は、肥料の不足という課題をもたらしました。
当時、農業の基盤は「草肥(くさごえ)」と呼ばれる、木々の若葉や草を刈り取り水田に踏み込んで混ぜる「刈敷(かりしき)」に大きく依存していました。刈敷は即効性はないものの、毎年投入し続けることで水田の地力を保つ伝統的な農法です。
この草肥を得るため、人里周辺の山野の多くが「草山(くさやま)」となりました[2]。
立木があると芝草が育たないため、大木や小木を伐採して野焼きを行うことで、立木のない草山が維持されました。稲作や畑作に必要となる草山の面積は膨大で、水田一反あたり十〜十二反、つまり水田の約10倍の山野が必要であったと考えられています。草山では同時に、農耕のための牛馬の飼料となる秣や、人々の生活の燃料となる柴木(しばき)[3]も調達されました。
新田の大開発が進んだ時代というのは、山野の樹木が伐採され、人の生活圏のそばは草山ばかりとなっている時代でした。
例えば、私も住んだことのある長野県飯田市のある伊那谷では、この時期の幕府調査に飯田藩領の山の植生が記録されています。その6割以上が草山・柴山[4]とされており、3割強が雑木、松、栂、檜他の高木の生える山となっています。17世紀の伊那谷は、人里近くは、草、芝もしくは低木柴類のはえる人為的な丸坊主山があり、その奥に高木が立つ奥山が遠謀されるという山地景観でした。
こういった土地利用と景観は全国的に共通したものだったようです。
例えば、古来からの林業地帯でもあった飛騨においても、18世紀前半の山林調査では、その6割弱が草山・芝山であったとされています[5]。私たちが近年目にしているような、人の生活圏のすぐそばに高木が生えた山林があるという状況は、比較的新しい景観であると言えます。

表. 飯山藩の山の植生
出典:近世伊那資料観光会編『近世伊那資料6』による。水本邦彦著「草山の語る近世より引用」
かつて日本の森林は広葉樹を主とする混交林が大半を占め、野生生物たちの食糧源が豊富にある山だったと考えられますが、新田開発や肥料・飼料・燃料の調達のための山林開発による伐採等により草山化し、クマを含む野生動物たちは、食糧のある奥山に生息していました。
人の生息域の拡大が野生生物を押し込め、また一定の距離をつくっていたのではないかと考えることもできるのではないでしょうか。
明治以降、そして戦後の社会変化と森林の変化
草山を生活基盤とする状態は魚肥(鰯やニシンなど)の普及がありつつも、戦後まで長く続きました。
この状況を変えて行ったのが、化学肥料の普及です。化学肥料は食糧増産と農業生産力向上を目的に拡大し、稲作や畑作の肥料を生活圏の野山から調達する代わりに、購入して使用する形に移行しました[6]。
また、戦後には農業機械の普及も進展しました。機械化により、牛馬の飼料を得るための秣場(まぐさば)も不要になり、1960年代以降にはプロパンガスなどが普及したことで、薪や炭などの燃料も草山・芝山から調達する必要がなくなりました。

図. 農業機械の普及台数
その後、草山となっていた山野は、早期の森林回復と高い収益を見込み、成長が早く建築用材等としての利用価値が高いスギなどの針葉樹を主体とする人工林へと植え替えが進められました。また、既存の天然林についても伐採後には針葉樹への植え替えが進みました[8]
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写真)島根県吉賀町の風景(2021年秋撮影)
写真は筆者が小水力発電の候補地調査のために島根県内の中山間地域で撮影したものです。
秋の写真ですので、落葉樹と常緑樹の境がくっきりとわかりますが、山のすべてが木々に覆われていることが見てわかります。
ご案内くださった地元のご年配の方に伺ったところ、この写真に写っている山には子供の頃は、ほぼ立木が生えていなかったそうです。牛馬の放牧のための草地や、燃料となるも柴木の調達に使っていたのです。
私の父母も小さい頃には牛を連れて山に草を食べさせに登り、散歩させるのが役目だったと言っていましたし、私が生まれた昭和50年代でも祖父母の家は薪のお風呂でした。
現代の森林環境とクマの接近
かつて立木が生えていなかった人里周辺の山は、現在では木々に覆われ、森林が回復・増大しました。
しかし、人工林化は木材生産の効率は良いものの、針葉樹の単純林が増えたことで種の多様性(生物多様性)が低下し、野生動物にとっては「食べものの少ない森」と言えるそうです。これは、野生動物が人工林を素通りして人里に降りてくる理由の一つと考えられており、加えて人が栽培する農作物は栄養価が高く、その味を学習した野生動物が繰り返し出没するようになっています。
さらに、農村の人口減少によって中山間地での人間の存在が減り、農地や林地の管理が希薄化していることも、野生動物が人里に接近しやすい環境を生み出していると考えられています[9]。
昔の里山や草山は、人の手が適度に入ることで野生動物と深い山との間に「見えない境界線」を作り出し、人と動物との互いの領域を分けていました。しかし、過疎化や人手不足でこの里山の手入れがされなくなり、里山は深い山へと姿を変えてしまいました。
これにより、熊は人間を警戒する場所が少なくなり、以前よりも容易に生活圏に近づけるようになっているのではないでしょうか。
気候変動の影響と人とクマの接点の増加
また、クマ類の生息域の拡大について、気候変動の影響を示唆する研究もあります。
東京農工大学の研究によると、過去40年間の情報をもとに、人間活動が低下し、耕作放棄地が増加した地域ほど、クマ類などの大型哺乳類が新たに分布を広げる傾向があること、降雪量の減少の程度が大きい地域(高緯度の地域や高標高の地域)に分布を拡大する傾向もみられたと報告しています[10]。
そのプロセスとして、大型哺乳類が分布域を拡大させる際には、周辺の生息に適した場所(人間活動が少ない場所や積雪が少ない場所)を優先して分布域を拡大し、その結果として、最終的には人間活動の盛んな地域に分布域が近づくことで人間社会との接点が増加してきたと考えられるとしています。
また、同研究では今後も温暖化の影響が拡大し、人口減少と都市集中が加速すると予想される日本において、今後もクマ類等の生息域の拡大と人間社会との接点や軋轢が増すことを示唆しています。
クマ等の野生生物の生息域の拡大には、人間の営みとその歴史的な変化が大きく関わっている
では、今後、私たちはどのようにしていけば良いのでしょうか。
クマ類による被害防止に向けた対策については、政府[11]や環境省[12]において、その方策が議論されており、早期の対応が期待されています。また、これからの森のあり方についても森林経営のあり方、防災、生物多様性など様々な観点から望ましい姿が模索されるものだと思います。
その上で、私が一点強く思うことがあります。
それは、このクマの被害や獣害といった問題を、自然に近い場所に住む一部の人だけに関わるものだと考えてはいけないのではないかということです。クマ等の野生生物の生息域の拡大には、人間の営みとその歴史的な変化が大きく関わっています。
化学肥料が本格的に利用されるようになることで食糧生産量が大幅に増加し、人口増にも寄与しました。ガスや電気を燃料として使えるようになり、私たちの生活は便利になっています。ただ、その一方で機械の利用や発電には化石燃料が多く使用され、化学肥料、特に窒素肥料(アンモニア)の製造プロセスでは大量の化石燃料を消費しています[13]。
変化には何事も良い面もそうでない面もあり、個々の変化が全体に繋がっています。人間の生息域の拡大・縮小、農業や林業の形の変化といった個々の変化が全体に繋がり、クマと人間の関係性にも影響を与えています。
私たちプロジェクトデザインでは、カードゲーム「2050カーボンニュートラル」というゲームの中で、温室効果ガスの循環構造を図化した「カーボンマップ」を用いて、「私たちの市民生活や企業等の事業活動による温室効果ガスの排出」や「植物による光合成や森林資源の増減」がどのように繋がっているのかを楽しく体験できる場を提供しています。
森林のCO2吸収能力は高齢級化により低下するため、植栽、間伐、再造林などの適切な森林整備を持続的に行うことが不可欠です。ゲームの中では住宅での国産木材の活用や森林整備、木質バイオマスのエネルギー利用など様々な方策を疑似体験することができます。
また、森のことや林業、動植物との関係についてより詳しく学びたい方には、森林の現状や持続的な森林活用について楽しく学ぶことができるカードゲーム「moritomirai(モリトミライ)」を使ったワークショップがあります(ぜひ、ご覧ください)。
日ごろ、自然や動物との関係や環境問題について身近でない方にも、楽しんで学んで、まずは自分ごととして捉えていける機会をこれからも提供していきたいと考えています。
[1] 参照)令和7年度第1回クマ被害対策等に関する関係省庁連絡会議
[2] 刈敷の歴史は古く、8〜9世紀の記録にも見られる、日本の伝統的な農法です。当時の日本の農業の基盤は大きくこの草肥に依存していましたが、その草肥のための草や若葉を得るために、人里周辺の山野の多くが「草山」となっていました。
[3] 「柴」は燃料や堆肥・刈敷などの肥料に用いた草木のこと。シバキなどのように薪にする雑木の小枝や、焚き付け、落ち葉のほか、肥料にする草木を指す。
[4]「柴」は燃料や堆肥・刈敷などの肥料に用いた草木のこと。シバキなどのように薪にする雑木の小枝や、焚き付け、落ち葉のほか、肥料にする草木を指す。
[5] 本稿に書いたここに書いた山地利用や肥料の変化については、『草山の語る近世』水本邦彦、山川出版社2003年に詳しい。より詳しくお知りになりたい方はぜひお読みください。
[6] 明治時代の半ば以降、日本でもリン酸肥料や窒素肥料が国産化され工業的に生産されました。化学肥料は明治期から普及が始まりましたが、戦後に食糧不足の解決や農業生産力の向上を目的として、さらに拡大した。参照)「有機農業と化学肥料」日本肥料アンモニア協会
[7] 参照)産構審環境部会地球環境小委員会 電子・電機・産業機械等WG 業界団体ヒアリング資料
[8] 参照)林野庁「森林・林業白書令和5年版」
[9] 人工林化による獣害問題については、「風の谷という希望」安宅和人、英治出版第8章に詳しい。同章では解決の糸口として「多種共存の森」という考え方についても紹介している。
[10] 参照)「人間活動の撤退は野生動物の繁栄を促進する ―耕作放棄地の増加と温暖化が分布域を拡大―」東京農工大学大学
[11] 参照)クマ被害対策等に関する関係閣僚会議(第1回)令和7年10月30日(木)
[12] 参照)「クマ被害対策等について」環境省
[13] 窒素肥料の原料であるアンモニア(NH3)は、ハーバー・ボッシュ法によって製造される。アンモニア合成に必要な水素は、主に天然ガス(メタンを水蒸気と反応させる方法(水蒸気改質法))を原料としており、製造工程においてもエネルギー源として化石燃料が使用されている。
ご案内
過去から現在にかけて私たちが行ってきた様々な活動が地球環境にどのような影響を与えているのかをマクロ的に俯瞰することによって、私たちの価値観や考え方に気づき、行動変容に働きかけるためのシミュレーションゲーム。
それが、カードゲーム「2050カーボンニュートラル」です。
ゲーム体験を通して「なぜカーボンニュートラルが叫ばれているのか?」、そして「そのために、わたしたちは何を考えどう行動するのか?」に関する学びや気づきを得ることができます。
組織内のサステナビリティ推進に向けた研修や、社内外とのステークホルダーとのサステナ推進の協働体制づくりにご活用いただけます。

ゲームの活用用途が決まっていない、ゲームに興味はあるが具体的な活用法がイメージしづらい方向けに、活用提案のコンテンツをご紹介します(カーボンニュートラル推進における問題の観点からカードゲーム「2050カーボンニュートラル」の活用方法をスライドを交えながら、分かりやすくご提案します)。
この記事の著者について
執筆者プロフィール

南原 順(なばら じゅん)
島根県浜田市生まれ。京都大学大学院地球環境学舎修了(修士・環境政策専攻)。2005年より南信州を中心に、市民が出資・参加する自然エネルギー事業の立ち上げ及び運営に携わる。その後、ドイツを拠点に欧州4カ国での太陽光発電プロジェクトの開発・運営を経験。帰国後は日本企業にて国内のメガソーラーの事業企画、開発を行う。2016年にコミュニティエナジー株式会社を設立し、島根県浜田市を拠点に地域主導の自然エネルギー導入の支援を行う。セミナー等での講演や企業・自治体向け職員研修・ワークショップの実績多数。
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